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  この人も聖書を読んでいた!

各時代にわたって、多く人々が聖書によって困難を乗り越え、
慰めを受けてきました。
あなたが知っている偉人たちも例外ではないのです。

数学者ブレース・パスカル
ウィリアム・スミス・クラーク
千利休
デイビット・リビングストン
野口英世

 フランスの偉大な物理学者、数学者、思想家、発明家、著述家です。パスカルは、少年期に幾何学や微積分に独創的な貢献をし、後に今日の確率の理論を練り上げました。また19歳の時、最初の加減乗除が自由にできる計算器を発明しました。物理学でも「パスカルの原理」は、現代のあらゆる水力利用装置を可能にする原理です。「真空論」「流体均衡論」など、とにかく彼は20歳前にすでに数学や物理学の分野で専門家になっていたのです。

 「人間は考える葦である」

 この言葉は多くの人に知られています。これはすばらしい思考力ともろい命を結びつけた人間の特性を示す言葉です。このパスカルの言葉のように、彼自身が鋭い知性と弱い肉体の持ち主でした。

 立派な家柄で、多方面において優秀で、さらに話術にも優れていたので、フランスだけでなく、全ヨーロッパにも人々の羨望の的となったようです。彼は賭け事をしたり、劇場に行ったり、狩りやテニスやダンスに熱中した時がありました。しかし、30歳になって、そのような生活に空しさを感じ始めました。それまで彼を魅惑していたことが、すべて愚かに見えてきたのです。31歳の時、パスカルの乗った馬車が橋にぶつかり、意識不明となり、命拾いします。そして彼は大きな転機を迎えます。

  決定的な回心を経験する 

 パスカルの31歳、16541123日の夜、10時半ごろから零時半ごろまで、ある神秘的な体験を通してクリスチャンになりました。次のように書き記しています。

  アブラハムの神、イサクの神、ヤコプの神。

 あなたは哲学者や学者の神ではありません。

 感動、歓喜、平安!

 ああ、イエス・キリストの父なる神よ。

 あなたがわたしの神となってくださったのです!

 キリストの神がわたしの神。

 わたしは、あなた以外のこの世のすべてを忘れます。

 神は福音の中で示された道によってのみ見いだされます。

 わたしの心を大きく開きます。

 父よ、この世はあなたを知りません。

 しかし、わたしはあなたを知ります。

 歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙!

 わたしはあなたから離れ、命の水の源を捨てていました。

 しかし、わが神よ、あなたはわたしを捨てませんでした。

 これからは永遠まであなたを離れることがないように。

                                    (以下省略)

 パスカルは39歳の短い一生をパリで閉じましたが、彼の死後出版された「パンセ(瞑想録)」の中で「人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である」は、人間を深く見つめた言葉として知られています。

「神を知ることと神を愛することは、何と遠く隔たっていることだろう! 神を知ることができるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってであり、また、その信仰も神から与えられるものである」。

                                                    (パスカルの言葉)


 日本福音書房「恵みの言葉」より抜粋


 明治政府は、未開拓の北海道開発のために北海道大学の前身、札幌農学校を開設するにあたり、教頭として米国のマサチュセッツ農科大学の学長であったウイリアム・クラーク博士を招きました。1876年(明治9年)731日、50歳で札幌に到着、2週間後の札幌農学校の開校式で クラーク博士は、ambition の前にloftyという形容詞をつけて 「崇高な大」(lofty ambition)をもって国家社会で重要な役割を果たすようにと諭しました。

 札幌農学校は、北海道開拓のための農業技術者養成を目的としていました。しかし、そこで重視されたのは、技術や知識の習得の前に「まず人間の育成」でした。校則の制定にあたっても、禁止事項は一切なく、ただ一語「Be  gentlemen!(紳士であれ!)、この一言に尽きる」と述べたそうです。彼は、紳士であるための条件は、神の御前で常に良心にしたがって行動することであると考えていたのです。

 彼は、徳育を講じてもらいたいとの要請を受け、そのために聖書を用いようとしたところ、猛烈な反対に遭いました。しかし、クラーク博士は徳育に聖書を用いないなら、何の効果もない、もし聖書を教えることが許されないなら、帰国すると強く主張しました。やむを得ず許可され、聖書が配布されました。

 彼は毎朝授業に先立ち、聖書の講義をしました。わずか8か月でしたが、彼は崇高な人格と熱烈な信仰によって学生たちに大きな感化を与えました。クラーク博士に直接教えを受けたのは、後に北大初代総長として活躍する佐藤昌介をはじめ、伊藤一隆、大島正健、内田瀞ら16人にすぎませんでした。一足違いでクラーク博士から直接教えを受けられなかった人たちも大きな影響を受けました。国際連盟事務局長として世界を舞台に活躍を続けた新渡戸稲造、ハーバード大学で博士号を取得した植物学者として世界に知られた宮部金吾、宗教家で思想家として有名な内村鑑三、志賀直哉など、多くの優秀な人材が生まれました。

 彼は日本を去る時、「イエスを信じる者の誓約」を作り、署名を求めたところ、一期生15名は全員これに応じ、さらに二期生18名も署名しました。彼らを札幌バンドと言います。彼は帰国する時、見送りに来た学生たちに馬上より「Boys, be ambitious!(少年よ、大志を抱け)という言葉を残して去りました。一説によれば、この後に「in Christ,あるいはfor Christ」がついていたとのことです。大きな志をもっている人間が、目の前の小さな欲、損得にとらわれて悪事を行ったり、勤めを怠ったり、粗暴な振る舞いをするわけがありません。

 クラークは主のもとに召される時、「今、一生を振り返って、わたしには何も誇るようなものはないが、ただ日本の札幌において数か月、日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、喜びを感じる」ともらしたということです。

(日本福音書房「恵みの言葉」第11号より抜粋)

 「利休はキリシタンであった」とする説は古くからあります。「利休はキリシタンでなかった。キリシタンであれば切腹しなかったはずだ」と言う人もありますし、「否、むしろ彼がキリシタンであったから切腹した」と言う人もあります。未だその切腹は謎です。それは戦国時代のことでもあり、信仰を守るだけでも大変でした。

 利休の門下の「利休七哲」[古田織部(1545-1592)、牧村兵部(1546-1593)、瀬田掃部(?-1595)、芝山監物(?)、高山右近(1553-1615)、蒲生氏郷(1556-1595)、細川忠興(1563-1645)]はみなキリシタンに関係深い者ばかりでした。利休七哲の筆頭、蒲生氏郷はキリシタン大名として知られ、またキリシタン大名として知られる高山右近は父親が熱心なキリシタンでしたし、彼自身も摂津高槻城主となった時は、キリシタンとしての影響力は大きく、25000人の領民のうち18000人がキリシタンとなり、高槻城内に天主堂や神学校(セミナリオ)などを造ったほどです。右近の勧めで黒田孝高や小西行長など次々と大名たちがキリシタンになりました。そして同時にお茶仲間でもあったのです。千家の現在の家元第14代、千宗守氏はクリスチャンですが、千利休はキリシタンであったと言っておられます。

 あまりお茶の事を知らない人でも、茶道といえば千利休です。お茶は奈良時代に日本に入ってきました。その頃は茶道ではなく、渇きをいやすものとして、薬として、眠気を払うものとして飲まれました。実際、お茶の効用はすばらしく、お茶を多く飲む人は長生きすると言われます。本格的にお茶が飲まれるようになったのは鎌倉時代以降で、茶の道を形成するようになったのは室町時代に入ってからです。ここには心の問題が入っています。千利休は、何も削るものがないところまで無駄を省き、一期一会という出会いの不思議と心の交わりを重んじる「茶道」、侘び茶の完成者として知られます。そこには、カトリックのミサの儀式、プロテスタントの聖餐式、聖書の言葉で言えば、主の食卓(パンさき)が入っています。カリスと呼ばれるぶどう酒の入った杯を回し飲みして、キリストの命の分与にあずかるのです。「一つパン、一つ杯」、これはキリストの救いのメッセージの中心です。これを通して、クリスチャンはキリストと一つにされ、またキリストのからだの肢体とされたことを享受します。茶室の入り口を低く狭くしたのは、すべての人が平等で、へりくだってそこに入るように、ということのようです。日本にないこの習慣を、彼はキリスト教から拝借し、同じ茶碗から濃茶を回し飲みするようにしました。

 と言うより、このお茶会はこのような奥義的なものに触れるときであったのかもしれません(?)。そこまでいかなくても、利休が茶の湯を発展させていく中で、キリストの救いの本質的な部分に触れ、新しい光を得たことは確かでしょう。利休の弟子の多くはキリシタンでした。

 利休は初め信長に仕え、信長の死後は秀吉に仕え重んじられました。秀吉も彼を天下一の茶人と誉め、茶以外でも自分の相談相手にします。そして天正13年には秀吉に従って宮中で茶会を催し、この時に利休の名を受けます。ところが突然天正19213日、秀吉は利休に堺への退去を命じ、次いで26日には京都に呼び出して切腹を命じるのです。71歳でした。なぜ急にそうなったのかは謎になっています。現在の茶道千家の開祖であり、茶聖と称せられます。

 わたしたちのお茶飲みにキリストが加えられるなら、その味わいはさらに深くて楽しいものになると思います。

(日本福音書房「恵みの言葉」より抜粋)



  リビングストンの伝記は、40数年前には、探検家として小学校の教科書にも載りました。きっと少年少女にこのような文章を読ませて、冒険心を養いたかったのでしょう。しかし、もともと彼は探検家でなく、キリストの福音を伝える医療伝道者としてアフリカに渡ったのです。彼は確かに探検家であり、地理学者であり、博物学者であり、また何よりも医療伝道者でした。

 1813319日、リビングストンは、スコットランドの小さな町に生まれ、家族揃って教会を中心とする敬虔なクリスチャンホームに育ちました。187354日、中部アフリカのイララ地方チタンポ村で赤痢で亡くなるまで長い年月、彼はアフリカで原住民にキリストの福音を宣べ伝え、未発見の秘境を踏査し、いまわしい奴隷売買を廃止するために大部分の時を費やしました。今日のアフリカは独立した50以上の国があります。しかし、その当時のアフリカは病気が蔓延し、部族間の争い、奴隷売買など、全く暗黒の時代でしたが、大部分の人々はアフリカがどんな所か何も知りませんでした。彼は熱病、食糧難、それに原住民から何度も殺されそうになりながら、暗黒大陸と言われたアフリカを愛し、アフリカにキリストの福音を伝えたのです。キリストを伝える情熱は燃え続け、決して消えることがありませんでした。キリストを信じる者は多くなり、彼の死後一世紀足らずのうちに、アフリカの森や沼地や砂漠の広大な地域のあちこちらに多くの集会所が建てられたのです。

 ある時、奥地から奥地へと原住民の部落を尋ねて伝道をしている時、土人に捕らえられ柱にくくられて、火あぶりにされそうになりました。彼らは自分たちを征服するために来たのだと思ったのです。彼は神の教えを伝えるために来たことをいくら説明しても理解してもらえません。いよいよ薪に火がつけられようとした時、彼は必死になって自分の足の裏を見てくれるように頼みました。彼の靴はぼろぼろに破れ、足の皮は切れて血が流れていたのです。彼は、こんな未開の地を征服するのに、だれがこのような苦しみをするだろうか、どうかわたしの言葉を信じてほしいと訴えたところ、はじめて彼らも心が伝わり、縄を解いてその教えに耳を傾けたのでした。

 彼は27歳の時、福音を伝えるために中国に行くか、インドに行くかと考えている時、結核でした。しかし、神は南アフリカに行くよう道を開かれました。出かける日、母のご馳走を食べて父と祈りました。神がどんな時にも共にいてくださるよう願った時、「わたしは決してあなたを捨てない」とのみ言葉を与えられ、喀血した青年リビングストンはアフリカに行ったのです。そして長い年月の間、主イエスの福音を宣べ伝えました。神は一度も彼を離れることはありませんでした。63歳の時、彼はだれもいない所で、下痢をし衰弱し疲労しきって、藁の上にひざまづいた祈りの姿のまま主のもとに召されました。

 彼が帰国したのは、生涯の中で2回だけでした。彼は次のように告白しています、「人々は、わたしの生涯を犠牲であると言います。しかし、それは決して犠牲ではありません。むしろ特権です」。



(日本福音書房「恵みの言葉」より抜粋)

 明治から昭和の初めにかけて、世界の舞台で活躍した日本の代表的な医学者といえば、「野口英世」という名がすぐに思い浮かびます。

 黄熱病の研究はだれも知っていますが、それだけではありません。ヘビ毒の研究、梅毒の研究、トラコーマの研究、小児麻痺の研究、狂犬病の研究など彼の残した業績は計り知れないものがあります。

                  新千円札のモデルとなった写真

          博士は科学への貢献により、人類のために生き、

           人類のために死せり

             Through devotion to science

            He lived and died for humanity

     ――(ニューヨーク・ウッドローン墓地にある博士の墓碑銘)――

 逆境をのり超えて細菌学の研究で世界に名を轟かしましたが、彼の研究対象であった「黄熱病」で最期を遂げました。

 人類のために貢献をし、世界的な医学者となった野口英世を知らない人はありません。彼は磐梯山のふもと猪苗代湖畔に農家の長男として生まれましたが、1歳半のころ、いろりに落ちて左手に大火傷を負いました。その左手を後で手術しましたが、完治しませんでした。しかし彼は医学のすばらしさを知り、医者への道を志しました。19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しましたが、その別れ際に「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という決意の言葉を柱に刻んでいます。

 彼は磐梯山の噴火を体験しているはずですが、直接には何も述べていないようです。ただ後に英世は『心の中に噴火』が起きた」と書いています。多くの人は向上心に燃えて猛勉強が始まったという意味に解釈していますが、あるいは振り返ってキリストを信じた時の心の状態、心の燃える経験を述べたのかもしれません。

  彼は18歳の時、47

 若松でバプテスマされ、クリスチャンになりました。

 彼は貧しさやハンディーを抱えながら、狂ったように学び、医学の道に進み、世界中の人々の命を救うことに専念しました。

 野口記念館にある英世に宛てた母シカの手紙があります。彼女は学校にも行けず大人になってようやく覚えた仮名で、「きてくだされ」「はやくきてくだされ」と息子に会いたい一心を切々と訴えた手紙で、わたしたちの心を捕らえます。

 「はやくきてくだされ、はやくきてくだされ、はやくきてくだされ、はやくきてくだされ、わたしもこころぼそくありまする。はやくきてくだされ、いっしょうのたのみでありまする、にしさむいてはおがみ、ひがしさむいてはおがみしております。きたむいてはおがみおります。みなみさむいてはおがみおりまする。ついたちにはしおだちをしております…ねてもねむられません…」

(日本福音書房「恵みの言葉」より抜粋)




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